<打算国家>

pressココロ上




先週は8年ぶりに友だちとお昼ご飯を食べました。友だちがいない僕の唯一の友だちですが、金沢から会いに来てくれました。もちろん僕だけに会いに来たわけではなく、子どもさんが千葉県に住んでいるらしくそのついでです。「ついで」と言っても、わざわざ僕の住んでいる駅近くまで来てくれたので、「ついで」というよりは「わざわざ」という言い方のほうがふさわしい表現です。

なぜ、「わざわざ」僕の近くの駅まで来てくれたかと言いますと、僕が電車オンチだからです。もちろん何年も前は通勤で電車を利用していたことはありますが、ここ最近はまったく利用していませんので、「乗り方」に関して自信がありませんでした。最後に乗ったのはそれこそその友だちと都心の駅で待ち合わせをしたときです。そんな不安を友だちに伝えたところ、「じゃぁ、そっちに行くよ」となったわけです。こんな友だちを持っている僕は幸せ者です。それでも、「ほかに友だちを持ちたい」とは思わないのが僕のへそ曲がりなところです。

友人関係というのは「お互いが相手に対してリスペクトをする」のが基本です。しかし、現実はそうではないことがそれなりにあり、例えば「自分の生活ぶりをそれとなく自慢する」などして、一見雑談っぽい会話でありそうで、実は「マウント合戦」しているケースが間々あります。それが僕には苦手です。

トランプ大統領とゼレンスキー大統領の会談は「マウント合戦」というよりも考え方の違いが顕著に出ていました。先週も書きましたが、先週の段階ではまだ細かなところまではわかっていませんでした。友だちと会う約束がありましたので、そのニュースの大まかな情報しか見ていなかったからです。その夜にNHKで会談の全編を見たのですが、同時通訳でしたので、詳しいやりとりまでは理解できていませんでした。その翌日に、きちんときれいに翻訳された字幕つきで映像を見たのですが、最初の印象とはかなり違っていました。

先週コラムを最初に書いた時点では、細かな情報がわからない状態でしたので、そのときはバンス副大統領をゼレンスキー大統領の「よき理解者」と勘違いしていました。理由は、ゼレンスキー大統領がトランプ大統領と言い争っている最中に幾度かバンス副大統領のほうを見て話していたからです。しかも、そのときのバンス副大統領は幾度かうなづいてもいました。その映像を見て、僕は勝手に、「トランプ大統領と話が噛み合わないのでバンス副大統領に説明している」と想像してしまったのです。繰り返しますが、バンス副大統領が「強くうなづいていた」ことが僕に好印象を与えていました。

ところが、ところが、あとになって詳しい内容を確認したところ、バンス副大統領は理解者どころか、言い争いのきっかけを作った張本人でした。僕は、映像の持つ恐ろしさを実感しました。よくYouTubeやSNSなどで「切り取り映像」が問題になることがありますが、これはYouTubeやSNSなどに限ったことではなく、すべてのメディアに当てはまります。大手テレビ局のニュース番組にしても、取り上げ方や伝え方、利用する映像などで「真実」もかなりニュアンスが違って伝わります。

今回の僕のケースでは、情報量が足りない中で僕が勝手に想像したことが原因ですが、大手メディアでは意図的にすることもあります。大手テレビ局にもリベラル系と保守系がありますが、局の考え方によって伝え方も違ってきます。見る人たちはそうしたことを意識しながら見ることが必要です。

僕の理想としては、テレビ局に限らず、大手と言われるメディアには「それぞれの視点」があってはいけないと思っています。トランプ大統領の1期目の就任パレードの表現方法が問題になりましたが、「もう一つの真実」があってはいけないのです。そうでなければ、受けとる側が誤った情報を受けることになります。

受け取る側にしても、それぞれの人にはそれぞれの考えや思想や信念があります。ですので、自ずとまっさらな状態で情報を受けとるわけではありません。いわゆる先入観というものがあり、その視点で情報を受けとりますので伝える側の情報がそのまま伝わるわけではありません。言葉を変えるなら「自分なりの理解」で情報を受けます。そうであるからこそ、メディアはフィルターのかかっていないできるだけ真っ白な情報を提供する責任があります。

どのようなフィルターをかけていようとも、トランプ大統領とゼレンスキー大統領の会談は「言い争い」でした。こればかりは如何ともし難く「真実は一つ」です。それほど強烈な言い争いでした。しかし、トランプ大統領とゼレンスキー大統領のそれぞれの立場を考えるなら、これは「言い争い」にはなりません。なぜなら、トランプ大統領のほうが圧倒的に強く有利な立場だからです。対等でない立場で純粋な「言い争い」は起きません。それほど大国アメリカのトップであるトランプ大統領の立場は強いのです。そうであるにもかかわらず、トランプ大統領はゼレンスキー大統領を罵倒していました。アメリカの精神はどこにいってしまったのでしょう。

先日、メジャーリーグで実績を残したイチロー選手の「アメリカ野球殿堂入り」のニュースがありました。そのイチロー選手がメジャーリーグに渡った当初、批判されたことがあります。イチロー選手はヒットメーカーとしてのほかに盗塁でも活躍していましたが、ある試合で大差で勝っているときに盗塁をしたことに対してです。アメリカでは「大差のときに盗塁をしてはいけない」という不文律があるそうです。なんと素晴らしいではありませんか。「弱者への配慮」が社会全体に行きわたっていることの証です。

実は、あの大谷翔平選手もパフォーマンスで少し物議になりそうなことがありました。それはホームランを打ったあとにバットを「大きくほうる」パフォーマンスです。ある試合で大谷選手がそのパフォーマンスをやったのですが、試合後に打たれたピッチャーにある記者が質問しました。「あのパフォーマンスをどう思う?」と。

このときそのピッチャーは「あれだけ活躍しているんだから、いいんじゃないか」と肯定的に答えました。この質問を聞いたとき、僕はその記者がなにかを企んでいるように感じたのですが、そのピッチャーが好意的な回答をしたことでこの問題は打ち切りになったように思います。これも大谷選手の人柄のなせるわざです。

話を戻しますと、トランプ大統領とゼレンスキー大統領の会談時にもゼレンスキー大統領に意地の悪い質問をした記者がいました。ゼレンスキー大統領の服装について質問したのですが、暗に「アメリカ大統領の執務室で失礼ではないか」と言っているようでした。記者の中には意図的に物議を醸すような質問をする人がいます。フジテレビの長時間会見でもそのような記者がいましたが、「記者の資質としてどうなのか」と思うのは僕だけではないでしょう。

アメリカでは「弱者に対する配慮」が基本理念になっているはずです。そのアメリカの大統領が「侵攻されている側の大統領を罵倒する」ことに対する批判があまり大きく起こらないのが不思議です。特に、スポーツ界からもっと大きな批判の声が上がっても然るべきです。先日、バスケットボールのNBAでも大差がついた試合で勝っているチームが派手なダンクシュートしたことでトラブルになったという記事を読みました。トランプ大統領の会談時の振る舞いは、大差がついている試合での「盗塁」や「ダンクシュート」以上の侮蔑だったように思います。

トランプ大統領は「ディール」で物事を決めるのを好んでいるそうですが、それはアメリカが覇権国家から打算国家になることを意味します。アメリカ国民はそれでいいのでしょうか。

じゃ、また。




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