最近のスーパーの米売り場には、お米が山のように積まれています。一時期の「米不足」が嘘のような光景です。いったいあの米騒動は何だったのか……。
こう書きますと、「新米が出てきたから」と思う人も多いかもしれませんが、スーパーに並んでいるのは「新米」だけではありません。「6年産」とわざわざ表記されているので、昨年収穫された米だと分かります。米高騰が起きた際、その理由として「米不足」が取り沙汰されました。当時の江田大臣は「従来とは違う業者が買い集めている」と最初は説明しましたが、その後は「流通段階で目詰まりが起きている」と違う説明をしていました。そしてその最中に、「米を売るほど持っている」とか「米は買ったことがない」といった失言があり、更迭されてしまいました。
米不足が解消し始めたのは小泉大臣が就任してからです。小泉大臣になってから、「もともと米の生産量が少なかった」と説明されるようになりました。しかし、僕はそれでも納得できません。なぜなら、今スーパーの棚には「6年産」の米がたくさん並んでいるからです。結局、「お米はあった」のです。今の「6年産」のお米がその証拠です。この点について、マスコミにはもっと厳しく追及してほしいと思っています。
と、ここまで書いてきてふと、「あれ? これ、前にも書いたかも」と不安になり、これまでのコラムをチェックしました。すると重複するような文章はなかったのですが、それとは別に気になることを見つけました。それは「彼」という言葉です。
以前にも書きましたが、最近の僕はコラムを書く際、下書きのあとにChatGPTさんに校正をお願いしています。以前は「校正サイト」で確認していましたが、たまたまChatGPTさんに依頼した際、その的確さに感動したのがきっかけです。ですので僕のコラムは、僕の下書きをChatGPTさんに校正してもらい、それを僕が再度修正して完成させています。
最終的には僕自身が確認して仕上げているのですが、普段の僕はコラムで「彼」という言葉を使いません。ところが実際には出ていました。気づかなかったことショックでした。僕は「彼」という言葉があまり好きではありません。どこか偉そうな響きを感じるからです。ChatGPTさんからすれば、文章を組み立てるうえで自然な選択だったのかもしれませんが、ChatGPTさんは人間ではないので、そのあたりの心の機微は分からないのでしょう。けれども僕は人間なので、その微妙な言い回しが強く刺さってきます。
昔、ラーメン店を営んでいた頃、パートさんやアルバイトさんが退勤するときにどう声をかけるかを考えたことがあります。普通は「お疲れ様」や「ご苦労様」でしょうが、どちらも「上から目線」に感じられました。そこでたどり着いた言葉が「ありがとうございました」でした。働いてくださって「ありがとうございました」です。これはしっくりきました。おそらくChatGPTさんには思いつかない言葉でしょう。
そんなChatGPTさんだからこそ「彼」を使ったのだと思います。しかし僕には不遜に感じられました。僕が読んだコラムでの「彼」とは小泉大臣のことでしたが、その少し前に「小泉大臣」と書いていたので、同じ言葉が続くのを避けるために「彼」としたのでしょう。ですが、僕にはどうしても自分のコラムには馴染まないと感じられました。
僕は毎朝「森本毅郎・スタンバイ!」というラジオ番組を聴いているのですが、その番組には日替わりでジャーナリストの方が出演しています。その方々が政治家のことを語る際に「彼」という言葉を頻繁に使います。例えば石破首相について「彼は……」といった具合なのですが、僕には、それが「意識的に」使っているように思えます。
森本さんとの会話の中ですので、「石破首相は……」と言ってもよいはずなのに、あえて「彼は……」と言います。そこにはジャーナリストとしての矜持があるのかもしれません。一般の人は政治家や大企業の社長のような立場の高い人と話す機会はそう多くはありません。ですので、自然と「格が違う」と意識してしまうものです。
日米関税交渉の日本側担当者だった赤沢経済再生相が、初めて訪米した際に予定外でトランプ大統領と会ったとき、「自分とは格が違うのに会ってくださった」と会見で話していました。赤沢氏としてはトランプ大統領を持ち上げる意図だったのでしょうが、「卑下しすぎ」と批判もありました。「卑下」かどうかはさておき、役職によって位の差があるのは確かです。
ですので、一般の人は社会的に格の高い人を容易に「彼」とは呼ばないですし、呼べません。けれどもジャーナリストは違います。彼らには「偉い人と対等に渡り合える」という矜持があるのです。政治家や大企業の社長であろうが、自分たちは同等だ、という強い自負です。実際、そうでなければジャーナリストは務まらないでしょう。権力者に忖度していては、真実を追及することなどできません。
しかし僕はジャーナリストではなく、ごく普通の市民です。ですので、偉い人を簡単に「彼」とは言いませんし、書きません。それなのにコラムに書いてしまっていた。なぜ気づかなかったのか、自分でも疑問です。先ほど書きましたように校正はChatGPTさんにお願いしていますが、最終的には僕がチェックしているのです。そのチェックをすり抜けて完成原稿に残ってしまったのですから、完全に僕のミスです。
初めてChatGPTさんに校正をお願いしたときの感動は今でも忘れられません。僕が言葉に詰まって悩んでいた部分や、しっくりこなかった表現が本当に的確に修正されていました。自分の文章力の拙さを痛感すると同時に、やがて違和感も覚えるようになりました。それはChatGPTさんがあまりに「効率」を重んじているように思えたからです。
例えば、ChatGPTさんの校正コメントに「重複した部分を修正しました」と書かれることがあります。僕としては「同じような内容を繰り返す」ことに意味があると思える場合でも、ChatGPTさんからしますと「無駄な部分」と感じるのか、削ぎ落とされることが多々ありました。そこで最近は校正を依頼する際に「内容は変えずに」と一文を加えるようにしています。これで「効率重視」が少し和らいだ気がしています。
たとえChatGPTさんの効率的な校正が正しかったとしても、それでは僕の文章ではなくなってしまいます。前に小学生の作文コンクールなどで親が学校の先生が手伝って発表することの是非を書いたことがありますが、あまりに周りの大人のアドバイスが入りすぎると、当人の作品ではなくなってしまいます。例え拙くても当人が考えた文章こそがその人の作品です。仮に、それで結果が悪かったならそれも一つの経験です。それを糧に努力・工夫をすればいいだけです。ChatGPTさんの校正も誤りを訂正できるのは良いことですが、あまりにChatGPTさんの色が強く出ると弊害となります。
最近、「ChatGPTに文章を書かせてブログで稼ごう」という広告を目にしますが、いくらChatGPTさんでも「無」から魅力的な文章を生み出すことはできません。僕も「言い回し」や「言葉遣い」で助けを借りることはありますが、それも完璧ではありません。最終的には自分で探し出す必要があります。
ChatGPTさんはネット上の膨大な情報の中から的確な回答を引き出すのに長けているのは間違いありません。ですが、それが「彼」の限界です。
じゃ、また。