さて、先週の終わりに「今週書くことがなかったら“絵本について書きます”」と予告しましたが、なんと「書きたいこと」があるんですよねぇ。それは「オリンピックを見て」の感想です。あれだけマスコミがこぞってオリンピックの洪水を流しますと、やはり、ひねくれ者の僕としては「書きたい」ことが出てくるじゃぁ、あ~りませんか。
僕は晩御飯は毎晩午後7時半頃と決めていまして、そのときはNHKを見ながら食べるのが慣習となっています。NHKではその時間に「クローズアップ現代」という番組を放送しています。今の時代に注目される時事について紹介する番組で、とても勉強になります。ところが、オリンピックがはじまってからは、ずっと競技についてばかり報じていました。ほかのチャンネルを見ても似たような番組ばかりで、正直、閉口していました。僕は午後10時からニュース番組も見ていますが、この番組でさえ多くの時間をオリンピックに割いていたのです。僕がオリンピックに飽きるのも理解していただけるかと思います。
しかし、まぁ、2週間の祭典ですので、我慢できないこともありません。ですので、メダルを獲得した選手のインタビューなどを見ることもあったのですが、その受け答えで気になることがたびたびありました。それは「周りに感謝」「自分だけの力ではない」「努力は報われる」……。これらの優等生的な言葉のオンパレードだったことです。もちろん、こうした言動は決して非難されるべきものではなく、反対に賞賛されるべきものです。こうした言葉からは「傲慢」「横柄」「尊大」「不遜」といったマイナスのイメージがまったく感じられないからです。ですが、こうした言葉をあまりに聞きすぎますと、僕は「出来過ぎ感」をどうしても感じてしまいます。
今から15年ほど前のバンクーバー冬季オリンピックのとき、あるスノーボードの選手が批判の嵐を浴びました。理由は、公式の服をだらしなく着こなし、記者会見でも礼儀正しさとは真逆の言動だったからです。スポーツマンシップの欠片も感じさせない選手でした。この選手に比べますと、今回の代表選手たちはとても礼儀正しく、真摯に対応しています。ですが、繰り返しになりますが、同じような言葉が誰の口からも聞こえてくるのは、やはり違和感があります。
言うまでもなく、メダルを獲得できたのは当人たちの努力の賜物です。ですが、それとともに周りのサポートをする人たちの力も大きな要因です。特に今の時代は科学の進歩などもあり、周囲のサポートの力は昔よりもさらに大きくなっています。ですので、周りに感謝する気持ちはスポーツマンシップとしても理解できるのですが、インタビューで質問を受けたあと、少し間をおいて出てくる言葉が似通っている光景を見ていますと、違う思いが浮かんできます。
もう多くの人が知っていますが、メダルを獲得した選手は各テレビ局をハシゴします。そして、どこも似たような質問をしてくるはずです。ですので、選手たちが前もって「優等生的な発言」を身につけているのが透けて見えます。そうしたことが僕の気持ちを白けさせてしまうのです。つまり、「その言葉、本心?」と疑いの目で見てしまうのです。もちろん、僕がひねくれ者だからこその疑いであることは承知しています。でも、そう思ってしまうんですよね。
「傲慢で不遜になれ!」と言いたいのではありません。ありきたりで予定調和的な返答は「見ている人に何も伝わらない」ということを言いたいのです。これはテレビ局への警鐘でもあります。似たような質問、似たような切り口では、見ている人は白けてしまいます。こうした姿勢が「マス“ゴミ”」と言われる由縁であるとさえ思います。
マスコミで僕が一番問題だと思うのは、「ストーリーを作ろう」とし過ぎることです。「こうしたら視聴者は感動するだろう」とあまりに安易に考えすぎです。もう、今の時代は違うのです。僕はNHKの「ブラタモリ」という番組を見ていますが、この番組を見ていて「画期的」と思ったのはカメラワークです。タモリさんやアナウンサーの周りにいるカメラやマイク、そうした道具を扱っている人たちも一緒に映すことがあります。どの番組が最初に始めたのかは知りませんが、出演者がカメラに向かって話しかけている様子を視聴者に見せています。これはとても重要な視点です。
テレビを見ていますと、視聴者(見ている人)に話しかけているような場面がありますが、実際はカメラに向かって話しています。現代の視聴者はそのことを十分に認識しています。前にも書きましたが、僕は今、バラエティ番組やドキュメント番組をほとんど見ません。理由は、撮っている人たちの光景が思い浮かぶからです。そうすると気持ちが白けるのです。
僕はnoteという投稿サイトを毎日チェックしているのですが、ある漫画アシスタントの方の投稿が好きで毎回読んでいます。ある日の投稿で、ラジオ番組に出演したときの話が書かれていました。TBSラジオの安住紳一郎さんの番組だったらしいのですが、そこには「インタビューのラジオ番組にも台本がある」と書かれていました。インタビューですよ。インタビューとは質問者が相手に質問をすることです。それに台本があるなんて、それではインタビューをする意味がないではありませんか。ラジオのインタビューでさえ台本があるのですから、テレビのバラエティ番組に台本がないはずがありません。
バラエティ番組ではMCが出演者に話を振る場面がありますが、あれも考えようによっては、すべて台本どおりということになります。そのやりとりの中でボケがあり、ツッコミがあり、そしてお互いが大笑いをしている場面があります。しかし、あれもすべて演技である可能性があります。それが僕を白けた気持ちにさせます。ドラマのように最初から脚本があり、それに沿って出演者が演技をすることを前提とする番組であるなら問題は感じません。しかし、バラエティ番組にも台本があると思うと、あの楽しそうなやりとりさえも決まりきった演技のように思えてしまい、白けた気持ちが強まってしまいます。
スポーツが見ている人に感動を与えるのは、そこに計算されたものがないからです。違う言い方をするなら、台本がないからです。来月、野球の世界ではWBCが行われますが、3年前の感動がよみがえってきます。大谷投手が米国の最後のバッター、マイク・トラウト選手を空振り三振に仕留めたとき、「まるで漫画のような展開」と言われました。漫画はドラマと同様、感動を与える台本(脚本)が事前にあって、それに沿って進んでいきます。その「漫画のような展開」が現実に起こったことが、感動をより大きくしました。感動を与えるには、台本がないことが重要な要因です。感動の度合いを伝えるために「台本のないドラマ」と言いますよね。
今回のオリンピックも同様です。予想しなかったことが起きることで、感動はさらに大きくなります。フィギュアスケートで“りくりゅうペア”が金メダルを獲得しましたが、ショートプログラムでミスが出て5位発進となりました。そこからのフリーで最高得点をたたき出し、大逆転で金メダルを獲得したことで、その価値と感動は格段に高まりました。もしショートでも1位を取っていて、そのままフリーでも1位で金メダルを取っていたとしたら、今回のような感動は生まれなかったでしょう。逆境をはねのける姿が、見ている人に感動を与えます。
ですが、僕は「うまくいかなかった人」のほうに視線を向けたくなります。スピードスケート1500メートルでメダルを期待されていた高木美帆さんが6位に沈みました。前回の北京オリンピックでは銀メダルでしたので、金メダルを目指していたのですが、夢はかないませんでした。いったい誰が「努力が足りなかった」と言えるでしょう。
全種目を終えたあとの美帆さんに、かつて一緒に戦っていたお姉さま、菜那さんの言葉が胸に染み入ります。アスリート同士でないと伝わらない言葉です。
「もう強くなくていいんだよ」
じゃ、また。