<ネット投稿と落書き>

pressココロ上




最近はあまり見かけなくなったと言いますか、僕自身が使うことが少なくなったからかもしれませんが、公園の落書きを見る機会が減ってきたように思います。公園と言いましても主にトイレですが、昔の公衆トイレは管理が行き届いていないのが普通でした。簡単に言いますと、清掃がなされておらず汚かったのです。

そもそも、昔は「公衆トイレ」などという上品な呼び方はせず、「公衆便所」と呼んでいたように思います。そうです。「便所」と言うにふさわしい雰囲気が公園の「用を足す」ところにはありました。間違っても女性が一人で利用することは考えられない代物でした。

現在、私の生活圏及び仕事で動き回る地域での公園のトイレはほとんどが清掃がなされておりきれいに保たれています。担当の清掃員が週に1~2度くらいの頻度で清掃に来ているようです。その光景を幾度か見かけていますが、軽ワゴン車に乗って来て、清掃道具で本格的にきれいに清掃しています。

このように最近のトイレはきれいなのですが、昔との一番の違いは落書きです。昔の公衆便所には、特に個室には落書きが書いてあるのが一般的でした。おそらく昔の思春期の男の子たちは青春の高まった気持ちをそこにぶつけていたのでしょう。落書きの内容は、便所にふさわしい「卑猥な」ものばかりですが、壁のあちこちに書かれていました。

公衆トイレに限らないのですが、一定の場所なり地域をきれいにするコツは「きれい」を保っている時間を長くすることです。矛盾しているように思えますが、人というのは「きれいな空間にいますと、汚くすることを躊躇する気持ちが芽生える生き物」です。

この発想に似た理論に「窓割れ理論」というのがあります。この理論を世に知らしめたのは1994年にニューヨーク市長に就任したルドルフ・ ジュリアーニ氏という方です。1980年代のニューヨークは犯罪多発都市になっていましたが、この理論を実践することで見事に治安を復活させました。

「窓割れ理論」とは「小さな不正を徹底的に正すことで、大きな不正を防ぐことができるという環境犯罪学の理論」ですが、具体的には「割れた窓を放置していると他の窓も割られやすくなり、割れた窓を放置せずに修理しておけば、次に窓が破られることはない。ゴミだらけのところにはゴミが捨てられやすく、ホコリひとつなくきれいに維持されている場所を汚すのは気が引ける」という心理を利用した理論です。

ジュリアーニ氏は「街の落書きなど軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで凶悪犯罪の件数をも激減させた」のでした。日本のことわざにも「千里の道も一歩から」というのがありますが、大切なことは日々の小さな行いのようです。

今でもたまに高架下などで落書きを見かけることはありますが、昔に比べますと圧倒的に減ってきています。これは暴走族が減ってきていることも関係しているかもしれません。昔は夏になりますと、深夜に暴走族が道路を占拠して通行の邪魔をすることもありましたが、ここ5~6年見たことがありません。暴走族も時代の流れとともに消滅したようです。いつの時代もあらゆるものは諸行無常です。

落書きの魅力は自らの気持ちや思いを外に吐き出すことでストレスが解消されることです。表立って、もしくは声高に、または堂々と表明できない自らの気持ちを外に吐き出す行為が落書きです。落書きは、一度に多くの人に知ってもらうことは難しいですが、トイレを利用する人には気持ちを知ってもらうことができます。

もしかしたなら、「知ってもらう」ことが目的ではないかもしれません。なぜなら、読んでくれているかどうかを確認する作業をしていないからです。「していない」というよりも「できない」のが正確な表現ですが…。

そうなりますと、落書きは「知ってもらう」ことが目的はなく、自分の気持ちや心の中にある感情を発散することが目的といえそうです。なにかの本で「自分の気持ちを文章にすることで気持ちを整理できる」と読んだことがあります。落書きとは「自分の気持ちを落ち着かせるため」ということになります。

このときに注意が必要なことは、そのときの感情のほとんどがマイナス思考のものであることです。例えば、うっ憤とか仕返しとか嫉妬といった人間が持つ負の感情です。プラス思考の感情ならば多くの人に知ってもらうことも問題ありませんが、負の感情は表立って公にすることは憚れます。

繰り返しになりますが、落書きは「表立って表明できない」ことを書くものです。僕は「インターネットも同じではないか」と思っています。落書きが可能なのは個人が特定されないからです。もし、書いた人が特定されるなら誰も落書きなどできないでしょう。落書きに対する反動が恐ろしいからです。

インターネットも全く同じです。インターネットの長所は匿名性です。落書きと同じように、投稿した人が特定されないことが基本です。最近は問題のある映像や記事が投稿されたときに、ITに詳しい人によって問題投稿者を特定されることがありますが、基本は匿名性が保たれています。

誰が書いたか特定されない文章は落書きと同じです。もちろん言うまでもありませんが、僕の記事も仲間です。自分を晒す恐ろしさを考えますと、自らを公開してまで記事を投稿する勇気はありません。そんな僕でも文章を書き、投稿することで満足感を得ることができています。落書きであってもそうした気分に浸れることは可能です。そのうえ、幾ばくかの収入も得られるのではあればなおさらです。

このようにネットへの投稿は一般人にとって満足できるシステムですが、投稿する側としての守るべきルールがあるように思っています。それは謙虚さと自制心です。匿名ですので誰からも直接非難批判されることがないからこそ自分を律する気持ちを持つべきだと思っています。

ここ1~2年、「#mee too」運動が世界を席捲していますが、その延長として自らが受けた過去のセクハラやパワハラを投稿する事例が増えています。最近では著名写真家が続けて批判されています。内容を読みますとかなり過激ですが、それは取りも直さず写真家を傷つける行為です。僕は記事の内容の真偽に疑問を挟んでいるのではなく、「投稿」という行為について疑問を感じています。

もし、匿名で誰かを批判するなら「誰か」も特定されないようにすることがマナーです。なぜなら、批判の内容の信ぴょう性について審査を受けていないからです。一般的に新聞やマスコミに信頼性があるのは、各マスコミ企業内において確認作業が行われているからです。最近でこそその確認作業も疑わしくなっていますが、基本的には行われているはずです。

それに対してネット投稿は誰からの確認作業も審査も受けていません。その記事の信ぴょう性は誰からも認められていないのです。そのような状態で記事を公にするのはあまりに危険です。その非難記事によって対象となった人が社会的に抹殺される可能性もあります。自らを公開して記事を投稿するのは別の次元になります。お互いが同じ土俵に立って戦うことになりますので公平さが担保されています。

しかし、匿名で投稿するのは公平であるとは言えません。ですから、実名をあげて他人の行いを暴露する投稿をする際は自らの個人情報も公開することが原則です。そうでなければ、暴露される個人を特定されないように配慮することが最低条件です。それを守れない暴露記事は落書きと同じです。

先ほどの著名写真家の暴露記事に対して、数日後に暴露記事に反論する内容の記事が投稿されました。その内容は感情的なものではなく抑制の効いた文面で、暴露記事を投稿した人を非難する論調でもなく自分の経験した内容を淡々とつづっているだけでした。読む側としてはどちらが正しいのか判断できないのが正直なところです。

ネット投稿は、誰かを陥れようとする際に使われることもあります。実際問題として、米国の大統領選挙ではそのような使われ方が行われたと報じられています。ネットに騙されないためには、匿名記事は落書きと思いながら読むことが必要です。それを踏まえたうえで、「火のないところに煙は立たない」と「根がなくとも花は咲く」のどちらを選ぶかを自分で判断すればよいのです。

じゃ、また。







シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする