<主流派と非主流>

pressココロ上




トランプ大統領とその側近たちは、あまりにも軽々しくメディアを「嘘つき」呼ばわりしますが、その姿勢は第一期大統領就任式の頃からすでに表れていました。最初に問題となったのは、「就任式に集まった群衆の数」でした。報道官が「過去最大の群衆だった」と述べたのですが、実際にはオバマ大統領のときの方が明らかに多かったのです。

空撮映像を見れば、その発言が事実に反することは一目瞭然でした。しかし、その矛盾を指摘された際、大統領顧問の口から飛び出したのが、あの有名な「もう一つの事実(alternative facts)」という言葉です。当時、僕は「正義は一つではない」という言説を耳にすることが増えていたため、ある意味で「なるほど」と感じた部分もありました。

先週は、メジャーリーグでの報復死球騒動における大谷選手の素晴らしい対応について書きました。しかし、世界の紛争に目を向ければ、国家間・民族間・宗教間の対立の根本は、「どちらに正義があるのか」が判然としない場合が多いものです。そのため、立場によって「正義」の定義が変わり、「正義」がわからなくなるのも当然のことと言えるでしょう。

このように、「正義」は一つではありませんが、「事実」は一つでなければなりません。というより、「事実が一つである」ことが、意思疎通の前提なのです。たとえば、目の前にリンゴが2つあるのに、誰かが「1つだけだ」と言ったら、それを正確に分け合うことはできません。だからこそ、「事実」は常に一つである必要があります。

メディア業界を見渡すと、しばしば「保守系」「リベラル系」といったラベルで区別され、同じ出来事であっても報道の仕方が微妙に異なることがあります。僕は、これは本来あってはならないことだと思っています。なぜなら、事実は一つであるべきだからです。事実が共有されなければ、情報を受け取る側の間で話が噛み合わなくなってしまいます。

私は毎朝「森本毅郎・スタンバイ!」というラジオ番組を聴いていますが、その中に「新聞読み比べ」というコーナーがあります。各紙によって報じる内容や論調が異なることを示すコーナーです。それを思うと、一紙しか読まない人は、どうしても偏った情報に触れることになります。それで正確な理解が得られるのかには疑問が残ります。

幸いなことに、今はIT技術の発展により、さまざまな主義主張の情報にアクセスできる時代です。情報の取捨選択は個人に委ねられていますが、だからといってメディアが「自分たちの情報が偏っていても構わない」と考えてよいわけではありません。メディアには、できる限り正確かつ中立な情報、つまり多角的な視点をバランスよく織り交ぜた内容を提供する責任があります。

僕は、そこにこそメディア従事者の「実力」が表れると考えています。僕はYouTubeでDIY動画をよく観るのですが、似たようなテーマの動画が次々とおすすめされてきます。そこでは、素人には到底真似できないような、見事な職人技が披露されています。まさに「プロの技」であり、その技術の高さに毎回感心させられます。

同じように、メディア関係者にも「職人技」を求めたいと思います。膨大な情報の中から偏りなく、社会にとって有益な情報を選び出し、丁寧に加工する。それができて初めて、メディア界の「職人」と呼べるのです。自分の思想や信条に基づいて一方的に情報を伝えるだけなら、それは素人と変わりません。

先週も少し触れましたが、「森友学園」をめぐるニュースで新たな情報が報じられました。この件で最も腹立たしいのは、「当初は存在しない」とされていた資料が、今になって出てきたことです。一体、あのときの「資料は存在しない」という説明は何だったのでしょうか。今回新たに明らかになったのは、「欠落していた資料」が「政治家とのやり取り」に関する部分だということ。常識的に考えれば、「政治家への配慮」が働いたと見るのが自然です。

僕がこの事件を知るきっかけになったのは、元NHKの相澤冬樹記者が他メディアで告発したことでした。相澤氏は、NHKがこの事件を報じようとしなかったことに義憤を感じ、退職した人です。この出来事は、まさにメディアとしての「職人魂」が試された場面だったと思います。政治家への忖度があったとしても、それを含めて中立性が問われるのです。相澤氏が退職してまで報じようとしたのは、記者としての職人魂があったからこそ。一方で、そうした記者を引き止められなかったNHKには、その魂が欠けていたと言わざるを得ません。……僕、受信料を払っているのに。

ただし、現在のNHKは森友学園事件を詳細に報じています。そこには、上層部の人事異動があったのではないかと推測されます。今のフジテレビの様子を見ても思うのですが、組織は人の集まりですから、必ず「派閥」が生まれます。「派閥」と聞くと政治の世界を思い浮かべますが、多くの人が集まる場ではどこでも自然と派閥はできるものです。そして重要なのは、「どの派閥が主導権を握るか」という点です。もし「悪い派閥」が権力を持てば、その組織は悪い方向へ進んでしまいます。

大きな組織や集団で主導権を握る側を「主流派」、それに対抗する側を「非主流派」と呼びます。この意味で言えば、米国という大きな集団で主導権をめぐって争うのが「選挙」です。現在は、「Make America Great Again」を掲げるトランプ陣営が主流派に位置しています。

国家のような大規模な集団では選挙という明確なシステムがありますが、それがない場合には、別の要素が主導権を左右します。先々週、『ソウルの春』という韓国映画を観ました。この作品は、選挙制度が機能していない時代に、どのように主流派が形成されるかを描いています。最終的にチョン・ドファンの軍事政権が誕生しますが、それに至る攻防は手に汗握る展開でした。そして、何より強く印象に残ったのは、「正しい人が必ず勝つとは限らない」という現実です。軍事政権がその後に築いた独裁社会が、その事実を証明しています。

最近、僕が違和感を覚えている省庁があります。それは厚生労働省です。最初に引っかかったのは「水俣病患者と大臣との懇談会」での出来事でした。患者代表がマイクで発言中、厚労省の担当者が突然マイクのスイッチを切るという信じがたい対応を取りました。普通の感覚を持つ人なら、発言中にスイッチを切ることにためらいを感じるはずです。まるで「どうせ聞いても意味がない」とでも思っているかのようでした。

また、高額療養費制度の見直しも厚労省の管轄です。患者の意見をほとんど聞かずに、自己負担額を一方的に増やそうとしました。これについては石破首相がストップをかけ、なんとか実施には至りませんでしたが、患者側の不信感は拭えません。このような強引なやり方が可能になっているのは、そうした考えを持つ人たちが「主流派」になっているからではないかと感じます。

農水省では小泉農水大臣が備蓄米の放出で迅速な対応を見せていますが、前任の江藤大臣の時代とは対応が一変しました。江藤大臣は「米価の高騰はやむを得ない」という姿勢を示していましたが、小泉大臣は即断で備蓄米の放出を決定しました。この変化を見て、私が感じたのは、農水省内部の官僚の入れ替わりです。つまり、江藤派から小泉派への主流派交代と見るべきでしょう。そうでなければ、これほど短期間で方針が変わる説明がつきません。

小泉大臣の父・純一郎氏の言葉を借りるなら、「守旧派」と「改革派」の交代です。農水省内でも官僚同士の軋轢があったことは想像に難くありません。とはいえ、大臣は定期的に交代します。その際、官僚の人事がどうなるのか、つい余計な心配をしてしまいます。

これは官僚の世界に限った話ではありませんが、どの世界であろうとも、僕は「正義」が主流派となる社会であってほしいと願っています。

でも、「正義」って変わるからなぁ…。

じゃ、また。

校正:ChatGPT




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